2010年7月3日土曜日

感動をもらいました!

ここ数年、テレビや新聞などで「○○選手の活躍に感動をもらった」や「戦う姿に勇気をもらった」など、感動や勇気を「もらった」という表現をよく見ますが、あれはおかしいと思いませんか。感動するのも勇気を出すのも自発的なことであり、「もらう」わけじゃないですよね。

なんだろう、この、「感動をもらっちゃ、いかんどう」「勇気をもらったなんて、言う気?」などと寒いダジャレを棒読みしたくなるような感覚は。「感動した」「勇気が出た」ならわかります。しかし、「もらった」とするのはどうにも違和感がぬぐえない。

別に屁理屈をこねてるわけではなくて。「屁理屈をこねてるわけではなく」と弁明するのがすでに屁理屈であるとも言えますが。いや、本当に、感動や勇気って「もらう」ものじゃないですよね。日本語としておかしいのもあるけど、それ以上に、何だか他力本願な姿勢が透けて嫌悪してしまいます。感動や勇気は与えてもらうものであると。

それに、能動側は「感動を与えよう」「勇気を与えよう」なんて思ってないだろうし、受け手が勝手に思い込んでるだけですたぶん。似たようなのに「感動をありがとう」もありますね。こう書いてると、これらの表現って空虚だなとあらためて感じる。

テレビや新聞は仕事だから仕方ないにしても、それらに感化されて「感動をもらった」と何の疑いもなく使ってる方々には違和感を抱かざるを得ません。「感動した」ではいけないんでしょうか。あ、もしかしたら、「テレビのアナウンサーが『感動をもらった』などとおかしい日本語を使っているという感動をもらった」という皮肉が込められてるのかも。たぶんないだろうけど。

「感動をもらった」と言ってる本人が満足なら構わないじゃんって気はします。でも僕からすると、そんな表現を日常生活で使っちゃう人こそ感動ものだよ……と、うまくまとまりましたか。ああ、よかった。このワンパターンな構文には我ながら感動を抱かずにいられません。

以上、みなさまに感動を与えたくて書いてみましたので、感動をもらってもらえませんか?